The 1950s
古美術商・平山堂商店に勤めていた山本孝は、1948年に東京画廊の前身となる数寄屋橋画廊を銀座に設立しました。その後、のちの南画廊のオーナー、志水楠男とともに1950年に東京画廊を設立します。
開廊した当初の展覧会は洋画・日本画が中心でしたが、山本は評論家・瀧口修造の紹介で斎藤義重と出会い、1958年に個展を開催します。この抽象絵画展がきっかけとなり、東京画廊は国内外のさまざまな現代美術を扱うことになります。
The 1960s
山本がヨーロッパの抽象絵画に出会ったのは、1953年の初渡欧の際でした。その後、1960年代の東京画廊は、ルチオ・フォンタナ、イヴ・クライン、ジャクソン・ポロック、フンデルトワッサー、ザオ・ウーキーなど、数々の外国人作家の展覧会を通じて、日本に新しい表現を紹介しています。
また1960年代は日本の戦後美術が最も熱を帯びた時期です。東京画廊では具体美術協会の吉原治良、白髪一雄、元永定正、前衛美術グループ「ネオダダ」の吉村益信、篠原有司男、また「ハイ・レッド・センター」の高松次郎など、数多くの個展を開催しました。
また、中原佑介と石子順造の企画によって開催した『トリックス・アンド・ヴィジョン』展(1968年、村松画廊共催)は、もの派につながる潮流を形成していったという点で、 歴史的に高く評価されている展覧会です。
The 1970s
若手アーティストの李禹煥、関根伸夫、吉田克朗、小清水漸、菅木志雄、成田克彦、榎倉康二が中心となって、1960年代末から70年代中盤まで続いた美術動向は、後に「もの派」と名付けられました。東京画廊は「もの派」のアーティストの個展を、1969年以降継続して開催しています。
また、1970年代は東京画廊がアジア諸国に目を向けた時期です。山本はまだ戒厳令下にあった韓国を訪れ、朴栖甫、李東熀、徐承元、許熀、権寧禹の5人の作家を選び、グループ展『5つのヒンセク<白>韓国五人の作家展』を企画します。その後も、金煥基、金昌烈、朴栖甫、李禹煥、沈文燮、尹享根、丁昌變、李康昭らの個展を開催し、韓国美術の紹介は東京画廊の活動の主要な柱になっていきます。
The 1980s-1990s
1989年2月、田畑幸人が北京で開催されていた『中国現代芸術展』(中国美術館)を訪れたことをきっかけに、同年7月に『中国現代美術<今>展』を開催しました。こうして、中国現代美術への取り組みが本格的にスタートします。
1991年には『中国現代芸術展』で知り合った徐冰の個展を開催し、彼の代表作である<Book from the Sky>を展示しました。また、蔡国強とは日本滞在中の1980年代から交流を持ち、1991年のグループ展『アジアの浪<中国>』展に出品、1994年には個展『蔡國強:炎について』を開催しています。
BTAP opens
2002年、中国人アーティスト黄鋭の協力を得て、大山子798芸術区にBTAP (Beijing Tokyo Art Projects)をオープンしました。第一回目の展覧会は評論家・馮博一を招き、グループ展『北京東京藝術工程首展—北京“浮世絵”』を開催しました。
その後、BTAPは実験性の高い展覧会を企画してゆきます。中国初となった抽象絵画の展覧会『数珠と筆触』(キュレーター:栗憲庭、2003年)、コンクリートの中に24時間立て籠るパフォーマンスを行った何雲昌の『鋳』(キュレーター:唐昕、2004年)、そして、作家の母親が捨てられずにためていた無数の物品を並べた宋冬の『物尽其用/Waste Not』(キュレーター:巫鸿、2005年)などは、東京画廊+BTAPの新たな展開を象徴する展覧会となりました。
Present
東京画廊+BTAPは継続して日本の戦後美術を海外に紹介しています。また、次世代のアーティストの発見・紹介にも力を注ぎ、アジアの幅広い年代にわたる現代美術を扱う日本、中国の主力画廊として、海外のアートフェアにも積極的に参加しています。
Archive
東京画廊+BTAPには開廊当初からの資料がたくさん残されています。現像されていない写真フィルムも多く残っており、美術館の協力を得ながらアーカイブの整理、デジタル化を進めています。
歴史性は東京画廊+BTAPの最も重要な特徴です。アーティスト、コレクター、キュレーターなど、多くの方に画廊のアーカイブを開き、研究や創作の参考となるようにと願っています。