Tokyo
藤幡正樹 E.Q.
2019/7/6–8/31
機材協力:キヤノンマーケティングジャパン株式会社
アーティストホームページ
●オープニング・レセプション
2019年7月6日(土)|16:00-18:00
東京画廊+BTAPにて
●トーク・イベント(定員30名要予約)
2019年7月20日(土)15:00-16:30 アーティストトーク 藤幡正樹
2019年7月27日(土)15:00-16:30 ディアローグ・イベント
黒瀬陽平氏(美術家、美術批評家) X 藤幡正樹
2019年 8月21日(水)18:00-19:30 ディアローグ・イベント
Yuk Hui氏(哲学者)X 藤幡正樹
この度東京画廊+BTAPでは藤幡正樹個展「E.Q.」を開催いたします。
弊廊では1968年に視覚をテーマにした展覧会を二つ行なっています。一つは見ることに疑義を呈する「トリックスアンドビジョン盗まれた眼」展、そしてもう一つはイメージを新しいメディアからとらえた、CTG(コンピュータ・テクニック・グループ)による「コンピュータ・アート展:電子によるメディア変換」です。昨今の日本のアートシーンはメディアアートによって席巻されつつありますが、そのパイオニアとも言える藤幡正樹の今回の個展は、改めて視ることとイメージの関係を問い直すものです。
展覧会タイトルとなったE.Q.とは、Equalizeの略語です。本来イコライズとは数学で左辺と右辺を等式化することですが、技術領野では歪んだ状態をフラットな状態に戻すことをイコライズと呼びます。メディアは必ず対象を歪めます。この歪みはイコライズ可能なのでしょうか?
本展で展示する作品では、高解像度カメラによってリアルタイムに取り込まれたイメージが、コンピューターによって座標変換され、プロジェクターで投影されます。そこに映し出されるのは鑑賞者の身体のイメージですが、物理的な鏡とは異なり、定着されないデジタルメディア上のイメージは常に移ろい続けます。視覚をテーマとして先鋭的な表現を追求してきた藤幡ならではのインタラクティヴな作品です。
7月6日(土)16時よりアーティストを囲んでのオープニング・レセプションを開催いたします。皆様のご来場を心よりお待ち申し上げます。
E.Q.
Masaki Fujihata May 2019
水面に映る自分自身、壁の節穴が作る投影像、そしてレンズを用いたカメラ・オブスクーラが作る像。像はイメージと呼ばれ、簡単には物質として定着することができずに、常に移ろいゆくものであったのだが、19世紀に写真術という化学と光学の結婚によって、それが可能になった。定着され得なかったはずの像(イメージ)が、定着できるようになったことで、見るという行為の意味が問い直されるようになった。
イメージの定着が写真によって完璧になされるようになったことで、本来はpaint(塗装)に過ぎなかった絵画は、ますますpicture(画像)であることに固執して、イメージの問題から逃れるようになった。わざわざ写真や絵画をまとめた呼称として、美術(Fine art)以外に、視覚芸術(Visual arts)という用語が必要になったのも、こうした背景があるからではないだろうか。しかし、現実的には時間を扱うメディア技術が急速に発達したことで、イメージの問題はますますおもしろい展開を見せている。
これまで記録することさえ難しかったイメージが、デジタル技術によって、光学的処理を経ない方法で記録再生できるようになり、さらに編集や改編が自由にできるようになった。ここでは、プログラムによってイメージが編集されるのだが、プログラムの根本にあるのは数学であり、問題を解く方法=アルゴリズムによってイメージが改編される。このアルゴリズムでイメージを操作するデジタル技術というものは、写真などのイメージ操作技術とは、何かが根本的に違っている。
新しいアルゴリズムを作り出すと、同じアルゴリズムからほぼ無限のバリエーションを生み出すことができる。新たな作業手順=アルゴリズムを創造することは、まさに脳内での創造作業であり、プロセスをイメージすることとそっくりである。作業手順のイメージが掴めないままに、作業に入ると大概は失敗することを僕たちは知っている。視覚イメージの生成における創造的なアルゴリズムは、これまでのイメージの世界に、メタなイメージ創造の次元を付け加えることを可能にしたのである。
しかし、視覚とイメージを直接に繋ぐものは、自分自身の身体でしかない。起源は水面に映った自分の姿であり、近代以降は鏡ということになるだろう。鏡に対面した人は、身体を使うことによってのみ自分自身の視覚イメージを獲得することができる。そこには物理的な関係性と光学的な関係性しかない。ところがデジタル技術が介在することで、イメージの複製に無限の可能性が生まれてしまった。人が初めて鏡を見た時のこと、初めて自分自身が写った写真を見た時のことが、やがて了解事項となって疑義を挟まなくなってしまったのとは違って、この定着されないデジタルメディア上のイメージは無限にうつろいながら、無限に疑義を呈するのである。